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「親鸞とともに」その27 ブログトップ

発信と受信 [「親鸞とともに」その27]

(3)発信と受信

「おかえり」が先で「ただいま」が後ということに関連して、J.デリダの「アロー」が思い出されます。彼はわれらが「アロー(英語のハローです)」と誰かに電話するのは、それに先立ってその人から「アロー」というよびかけがあるからだと言います。ある人から「アロー」という声が心に届いているから、それへの応答として「アロー」と電話するというのです。そういえば、山道を歩いているときなど、すれ違う見知らぬ人に自分でも思いがけずに「こんにちは」と挨拶することがありますが、それはそれに先立ってその人から「こんにちは」という声がひそかに聞こえたからではないでしょうか。それが聞こえなければ、あえて「こんにちは」と挨拶することはないでしょう。

「あらゆる発信は、返信である」というデリダのことばから、いよいよ親鸞に入っていくことができます。

「南無阿弥陀仏」とは「わたしは阿弥陀仏に南無いたします」と表明することです。「南無」とは「帰依する」あるいは「帰命する」という意味の梵語「namo」で、「阿弥陀仏」とは「無量のいのち」あるいは「無量のひかり」という梵語「amita()yusamita()bha)」ですから、「わたしは無量のいのち(無量のひかり)に帰命いたします」という意味になります。「帰命」の意味については、この後じっくりと親鸞の言うところを聞きたいと思っていますが、いまはとりあえず「(如来の)おほせにしたがふ、めし(召し)にかなふといふなり」(和讃に対する左訓)という親鸞のことばを上げておきましょう。如来の命にしたがうということです。

「南無阿弥陀仏」は名号といわれますから、単に名をあらわしているだけと思われがちですが、見てきましたように、これは「わたし」を主語とする文であることを改めて確認しておきたいと思います。すなわち「わたし」が「阿弥陀仏に帰命する」ことを表明しているのであり、名号とはいうものの、それ自体、名号を称えること、すなわち称名であるということです。さてここからが本題ですが、親鸞は、名号は称名(発信)であるより前に、聞名(受信)であると言います。「南無阿弥陀仏」はわれらがそれを称えるより前に、むこうから聞こえてくる聲であるというのです。


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