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すなはち往生を得 [「『証巻』を読む」その14]

(3)すなはち往生を得

願生の心とは、不思議な声が聞こえることでわれらに起るものであることを見てきました。名号(南無阿弥陀仏)とはその声に他なりません。名号といいますとわれらが称えるものと思ってしまいますが、それよりも前に向こうから聞こえてくる不思議な声です。親鸞は「行巻」において、それは「本願招喚の勅命(本願がわれらを招き喚ぶ声)」であることを明らかにしてくれました(「六字釈」)。そして善導はそれを「なんぢ、一心正念にしてただちに来れ」という声であると分かりやすく言ってくれました(「二河白道の譬え」)。その呼び声に接して、われらに願生の心が生まれます。

さて願生の心が生まれたそのとき実に不思議なことが起こります、もうすでに往生していることに気づくのです。

もし往生がこことは別のどこか(アナザーワールド)へ往くことであるとしますと(このことばはそう解するよう強く促す力があります)、往くことを願ったときに、すでに往っているということはありえません。しかし親鸞にとって往生とはどこかへ往くことではなく、「いまここ」で正定聚の位につくことです。そして正定聚の位につくとは、前回くわしく見ましたように、「わたしのいのち(有量のいのち)」が「わたしのいのち」のままで、すでに「ほとけのいのち(無量のいのち)」のなかに包まれていると気づくことに他なりません。としますと、往生を願うのは如来の不思議な声が聞こえることによるのですから、そのときにはすでに「ほとけのいのち」に遇っているのであり、したがってもう正定聚であることに気づいています。かくして「かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得」ということになります。

『論註』の最初の文から、如来の梵声(ぼんしょう)が不可思議なはたらきをすること、それを聞くだけで「すなはち正定聚に入る」(「すなはち往生を得」)という力をもっていることが明らかになりました。


タグ:親鸞を読む
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