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弥陀の名号となへつつ(冠頭讃) [親鸞の和讃に親しむ(その1)]

第1回 浄土和讃(1)

1.弥陀の名号となへつつ(冠頭讃)

弥陀の名号となへつつ 信心まことにうるひとは 憶念の心つねにして 仏恩報ずるおもひあり(第1首)

南無阿弥陀仏をくちにして まことの信心あるひとは いつも心に本願を ほとけに感謝わすれない

『浄土和讃』冒頭の和讃です。第一句と第二句で「弥陀の名号となへる」ことと「信心まことにうる」ことはひとつであると詠われます。まっとうに名号を称えている人は、まっとうに信心をえている人であり、逆に真実の信心をえている人は、おのずから名号を称えるということです。ところが、本願を信じることはできても、名号を称えるのはどうもという人がいます。何を隠そう、ぼく自身がそうでした。南無阿弥陀仏を口にするのがどうにも抵抗があるのです。しかし名号は「本願招喚の勅命」であるという親鸞のことばがストンと肚に落ちてからはこの抵抗感が消えました。「本願招喚の勅命」をぼく流に平たく言い替えますと「いつでも帰っておいで」となります。このように南無阿弥陀仏とは本願から「いつでも帰っておいで」と呼びかけられていることだとしますと、それに「はい、ただいま」と応答するのはごく自然です。それが念仏だと思えるようになって、ぼくの口から滑らかに南無阿弥陀仏が出るようになりました。

「憶念の心つねにして」とは、本願に遇えた人(本願の「よびごえ」が聞こえた人)の心はいつも本願に温められているということです。むかし「いつも心に太陽を」という映画がありましたが、それをお借りすれば「いつも心に本願を」となります。「仏恩報ずるおもひあり」とは、本願に遇えて「ありがたい(かたじけない)」という思い(それが『歎異抄』冒頭の「念仏申さんとおもひたつこころ」です)が生まれると、それは何らかの「しるし」として外にあらわれざるをえないということです。妙好人・因幡の源左は、母親から芋を掘ってきておくれと頼まれ、鍬をかついで畠まできたのですが、そこにはすでに先客(芋泥棒です)がありました。それを見た源左はそのまま踝を返し、母親に「今日はおらんちの番ではなかったかのう」と言ったそうです(『妙好人 因幡の源左』)。これが「仏恩報ずるおもひ」でしょう。


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