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「われ」への囚われ [『一念多念文意』を読む(その86)]

(13)「われ」への囚われ

 仏が現在存在であるときは、目の前にいる仏を「手本」として、自分もまた仏になろうとします。で、お手本としての仏に「どうすればあなたのようになれますか」と尋ねますと、「わがもの」への執着から離れなさいと教えられます。ところがこれが何とも難しい。その難しさはその人の能力の問題とか、努力の問題とかのレベルを超えたもので、それを解決しようとすることそのものの中に、それを妨げる要因があるという原理的なものです。
 どういうことか。
 「わがもの」への執着とは、結局のところ「われ」への囚われに他なりません。「われ」というものがあると思いこむところから「わがもの」への執着が生じるのですから、「わがもの」への執着から離れなさいとゴータマ=ブッダが言うのは、「われ」への囚われから抜け出しなさいと言っているのです。これが無我ということですが、さて、「われ」への囚われから抜け出すのは誰でしょう。「われ」しかありません。しかし、「われ」が「われ」への囚われから抜け出すというのは、ぼくは存在しませんとぼくが言うようなもので、ここには原理的なアポリアがあります。
 「われ」への囚われから抜け出そうとすればするほど、ますます「われ」への囚われにはまっていく。あり地獄のようなものです。としますと、所詮「われ」への囚われから抜け出すことはできないという結論になるのでしょうか。そんなはずはありません。ゴータマ=ブッダがウソを言っているのでないかぎり、彼は「われ」への囚われから抜け出ています。ゴータマを神格化するのでなければ、彼にできたことがわれわれにできないことはないでしょう。
 ここで「自力と他力」という補助線を入れます。

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