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重きものまず牽く [「信巻を読む(2)」その137]

(3)重きものまず牽く

前の段で謗法は五逆よりもはるかに罪が重いとされたことを受けて、まず、謗法は本人に関係するだけだが、五逆は他の人に害を加えるから、五逆の方が重いのではないかと反問します。そしてそれに答えて、謗法とは仏の教えも菩薩の教えも存在しないとすることだが、そうすれば「世間・出世間の善道」がなくなってしまい、そこから五逆罪が生まれてくるのだから、謗法の方が五逆よりも罪が深いのだと言います。

ここまでが前半で、それにつづくところで新たな論点が出てきます。『観経』には、五逆の罪人も臨終のときに善知識の勧めにより十回も念仏すれば往生できると説かれているが、これは業道の教え(因果応報)に反するのではないかという疑問です。すなわち、業道の教えでは「業道は秤のごとし、重きものまず牽く」とされるが、五逆という業は臨終の十念という業よりはるかに重いのではないか。加えて有漏つまり煩悩の心でなした行では三界を出ることができないから、五逆のものが臨終の十念で往生できるというのは理に合わないではないかということです。

ここでまた因果応報が出てきますが、これまで何度か述べましたように、これは仏教の縁起の教えと似て非なるものです。縁起とは、あらゆるものが縦横無尽につながりあっているという教えですが、因果応報とは、ある特定の因が特定の果を引き起こすという考えです。いまの場合、その因となるものに重い軽いの差があり、重いものが因となって果を生むと言うのですが、いずれにせよ特定の因と特定の果がつながっているということです。縁起においても、その相互のつながりに重い軽いの差はあるでしょうが、しかし重い場合は重くつながりあい、軽い場合は軽くつながりあっているのであって、どちらにしても互いにつながっています。

そのことを頭において、曇鸞が先の問い、すなわち五逆は十念より業因としてはるかに重いから、重いものがまず牽くのではないのかという疑問にどう答えているかを見ていきましょう。


タグ:親鸞を読む
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