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輪廻の世界とニルヴァーナの世界 [はじめての『高僧和讃』(その17)]

(17)輪廻の世界とニルヴァーナの世界

 輪廻の世界とニルヴァーナの世界は別ではないなどというのは、とんでもなく理不尽なことに聞こえますが、考えてみますと『中論』はその冒頭(帰敬序)でこう言っていました、「この世においては、何ものも生ずることなく(不生)、何ものも滅することなく(不滅)、何ものも常住することなく(不常)、何ものも断滅することなく(不断)、何ものも同一であることなく(不一)、何別異であることなく(不異)、何ものも去ることなく(不去)、何ものも来ることがない(不来)」と。
 この不生・不滅・不常・不断・不一・不異・不去・不来(これを八不と言います)の世界とは他ならぬニルヴァーナの世界ですから、龍樹は『中論』の冒頭において、この目の前にある世界がそのままニルヴァーナの世界であると言っているのです。ぼくらは、この世界は生じては滅し、生じては滅して、変化の絶えない世界であると思いますが、龍樹は、この世界が実はそのままで不生不滅の世界なのだと言っているのです(『中論』はそれを論証しているのです)。
 一方に生滅変化の世界があり、他方に不生不滅の世界があるというように、二つの世界があるのではなく、一つの世界が一方からみれば生滅変化の世界であり、他方からみれば不生不滅の世界であるということです。ニルヴァーナに「入る」などと言われますから、どうしても生滅変化の世界から出て、不生不滅の世界に入るというようにイメージしてしまいますが、そうではなく、生滅変化の世界が生滅変化の世界のままで同時に不生不滅の世界であることに気づくのです。
 「恩愛はなはだたちがたく 生死はなはだつきがたし 念仏三昧行じてぞ 罪障を滅し度脱せし」に戻りますと、念仏三昧により、恩愛の世界、生死の世界を脱出して、どこか別の世界へ往くのではありません。恩愛の世界、生死の世界が、そのままで不生不滅の世界、弥陀の本願海であることに気づくのです。

                (第1回 完)

タグ:親鸞を読む
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