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『教行信証』精読(その72) ブログトップ

本文6 [『教行信証』精読(その72)]

(14)本文6

 諸経典からの引用の後、それを集約して親鸞は次のようにのべます。

 しかれば、名(みな)を称するに、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ。称名はすなはちこれ最勝真妙の正業なり。正業はすなはちこれ念仏なり。念仏はすなはちこれ南無阿弥陀仏なり。南無阿弥陀仏はすなはちこれ正念なりと、しるべしと。

 (現代語訳) このように、弥陀の名号を称することは、よく衆生のあらゆる無明を破り、またよく衆生のあらゆる願いを満たしてくれます。称名はこの上なくすぐれた正しい行であり、正しい行はすなわち念仏であり、念仏とはすなわち南無阿弥陀仏であり、南無阿弥陀仏はすなわち真実の信心です。よく知らなければなりません。

 短い文で念仏の本質を言いつくしています。最初の文は、ほぼ曇鸞『論註』の「かの無碍光如来の名号は、よく衆生の一切の無明を破し、よく衆生の一切の志願を満てたまふ」という文そのままですが、ただ曇鸞は「名号は」と言っているのに対して、親鸞は「みなを称するに」と言いかえています。名号そのものが「無明を破し」「志願を満てたまふ」とするのと、われらが名号を称することによってそのような利益が与えられるとするのと。これは前にも述べましたように、親鸞にとって名号と称名はひとつであり、「名号は云々」と言うのと「称名は云々」と言うのは同じことです。
 このことは、たとえば真言宗ではマントラ(真言)そのものに力があり、これを唱えることによりその力をえることができると説かれますが、それと同じことでしょうか。一見よく似ていますが、しかしマントラを唱えることと名号を称えることはまったく異なります。両者の違いを明らかにすることは念仏という行を理解する上で本質的ですので、少し時間をいただきたいと思います。家永三郎という歴史家(教科書裁判で有名です)は親鸞の思想をきわめて高く評価しましたが、「ただ、念仏はどうも」と言われます。彼は親鸞の近代性に焦点をあてて評価するのですが、そこからしますと念仏が古い呪術にうつるのでしょう。彼には南無阿弥陀仏が一種のマントラに見えるのですが、これはしかし根本的な錯誤であると言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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