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ほとけのいのち [「親鸞とともに」その30]

(6)ほとけのいのち

「南無阿弥陀仏」はわれらが称える(発信する)ものと思い込んでいますが、それに先立ちむこうから聞こえてくる(受信する)ものであることが明らかにされました。まず「帰っておいで」という声を受信して、しかるのちに「ただいま帰らせていただきます」と発信するのです。そして「帰っておいで」という声が聞こえることそのものが救いであり(それが聞こえたとき「あゝ、生きていてよかった」と思います)、そのよろこびが「ただいま帰らせていただきます」という声となってほとばしり出るのですから、「南無阿弥陀仏」はあくまでもそれを聞受することに眼目があると言えます。信心正因と言われるのはそのことです。

さて、帰るべきところに帰ると言ってきましたが、いったいどこに帰るのか。それはわれらのいのちの故郷である「ほとけのいのち」に他なりません。

われらはみな「わたし」という「いのち」(それをつづめて「わたしのいのち」と言っていますが、前に詳しく見ましたように、「わたし」が所有する「いのち」ではありません)を生きていますが、その故郷は「ほとけのいのち」です。すぐ前のところで「命」という字について、それはもともと「お告げ、仰せ」という意味ですが、同時に「いのち」という意味でもあることにふれました。この二つはどのようにつながるのだろうと思いますが、どちらもどこかから「たまわる」ものであるという点で共通しています。天命とは「天から受けたお告げ」であるとともに「天から授かったいのち」という意味です。このように「いのち」は「授かる」もの「たまわる」ものであり、すなわち「ほとけのいのち」からやってくるのです。「ほとけのいのち」が「わたし」という「いれもの」にやってきて、「わたしのいのち」となるのです。

「ほとけのいのち」がたまたま「わたし」という「いれもの」にやってきて「わたしのいのち」となっただけのことですから、それはまたいつの日か「わたし」という「いれもの」から出ていくことになります。これが「わたしのいのち」が終わるときですが、そのとき「いのち」そのものが終わるわけではありません、もとの「ほとけのいのち」に帰っていくだけのことです。かくして「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」へと帰るという結論になります。


タグ:親鸞を読む
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