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負けてたまるか [「親鸞とともに」その19]

(19)負けてたまるか

では、「わたしのいのち」は「ほとけのいのち」という無限のつながりのなかにあって、それに生かされていることに目覚めたらどうでしょう。「わたしのいのち」の存立根拠は「ほとけのいのち」にあり、「わたしのいのち」があるのは、ひとえに「ほとけのいのち」のお陰であることに気づいたとき、そこにどのような世界が広がるでしょう。これまで「わたしのいのち」の根拠は「わたしのいのち」それ自体であると思い込み、「負けてたまるか」という思いに苦しめられてきましたが、いまや「ほとけのいのち」に生かされているのですから、「もう誰に負けてもいい」という安らぎのなかにいます。すべてのいのちが「ほとけいのち」としてひとつにつながっているのですから、もう勝つも負けるもありません。

Aといういのちは「たまたま」Aといういのちであり、Bといういのちもまた「たまたま」Bといういのちであるだけで、ABがそっくり入れ替わっても、いのちの無限のつながり(ほとけのいのち)そのものには何の問題もありません。とすれば、もう勝つも負けるもないではありませんか。かくしてそれぞれが与えられたいのちに安んずることができ、「たまたま」このいのちを与えられたことが何とも「ありがたい(あることかたい)」と思えるようになるのです。これが「この世に生まれてきた」ことが「ありがたい」ということ、「いまここで生きている」ことが「ありがたい」ということです。

さて、これで話が終わりではありません。「たまたま」このいのちを与えられたことは何とも「ありがたい」ことであると言ってきましたが、そしてそれぞれが与えられたいのちに安んずることができると言ってきましたが、それは現状に自足して、もう何もしないということでは決してないということです。しばしば宗教に対して、現実社会の実態がどのようであれ、その現実に安住してしまい、それを変えようとしないと非難されてきました。それは悪しき現実肯定であり、それでは世の中はちっともよくならないと。その典型がマルクスの宗教批判です。


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