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4月15日(金) [矛盾について(その256)]

 共時性は「つながりの感覚」だということでした。仏というのはその「つながり」の中にいるのではないかと思うのです。
 牛乳配達や小鳥のさえずりや朝刊の配達の「つながり」の中に朝があるように、見ず知らずの方とぼくとの「つながり」の中に仏がいる。この「つながり」というのは、AというものとBというものがあって、しかる後に両者がつながるのではありません。すでに「つながり」があって、その中にAとBとが包み込まれているのです。見ず知らずの方とぼくとが「おはようございます」の声によってつながるのではありません。「おはようございます」の中に見ず知らずの方とぼくとがもうすでにつながりあっているのです。だからこそ、その声が「そのまま生きていていい」と聞こえる。
 見ず知らずの方とぼくとの「つながり」の中に仏がいると言いましたが、この言い方では、「つながり」の中の「どこに」仏がいるのかと探し回るかもしれません。そこで「つながり」そのものが仏だと言いなおしましょう。でも、そんなふうに言いますと、そもそも「つながり」と仏とでは範疇が全く異なる(「つながり」は関係の範疇で、仏は実体の範疇)ではないかと苦情が出ることでしょう。しかしそれは仏をこちらから捉えようとしているからです。仏はそんなふうに「こちらから見る」ものではなく、「向こうから感じられる」ものです。「つながり」として感じられるのです。

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