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南無阿弥陀仏とは [『歎異抄』ふたたび(その17)]

(7)南無阿弥陀仏とは

 むこうから名号が聞こえてきて、それにこだましてわれらが名号を称えると言ってきましたが、名号が聞こえるというのはどういうことでしょう。
 名号とは「南無阿弥陀仏」ですが(ただ『大経』と『小経』には名、名字、名号としかなく、それが南無阿弥陀仏であることは『観経』にはじめて出てきます)、この六文字の意味することを明らかにしてくれたのが善導の『観経疏』です。「南無といふは、すなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり。この義をもつてのゆゑにかならず往生を得」。前半はよく分かります。南無阿弥陀仏の南無とは如来の命に帰すことであり、また如来に往生を願うことであるというのですから。ところが後半がよく分からない。南無阿弥陀仏の阿弥陀仏はその行であるとはどういうことか。
 そこで親鸞は『教行信証』「行巻」において、この善導の六字釈をさらに注釈してくれるのですが、そこで驚くべきことを言うのです。まず南無阿弥陀仏の「南無」ですが、善導によりますと南無とは帰命ですから、「われら」が如来に帰命するのであり、また「われら」が如来に往生を願うことです。ところが親鸞は帰命という文字の意味を詳しくたずねて、それは「如来」がわれらに「わがもとに帰りきたれ」と呼びかけているのだと言います。親鸞のことばでは「帰命は本願招喚の勅命なり」ということで、かくしてベクトルの向きが善導とは真逆になるのです。
 次いで南無阿弥陀仏の「阿弥陀仏」ですが、「これがその行である(即是其行)」という善導のことばがのみ込みにくい。そこで親鸞はそれをかみ砕き、ここで阿弥陀仏といわれているのは選択本願のことであり、われらが名号を称えるには違いないが、それに先だって選択本願によりわれらに名号が与えられているのだと解説してくれるのです。その意味で、名号を称えるのは「われら」の行とは言うものの、実を言えばそれは「如来」の行に他ならないというのです。選択本願によりわれらに名号が与えられるといいますのは、第十七願により諸仏が阿弥陀仏をほめたたえ、その「こえ」がわれらのもとに届けられるということです。
 かくして名号がむこうから聞こえてくるということになり、それにこだましてわれらが名号を称えるのです。

タグ:親鸞を読む
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