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自性唯心に沈みて [『教行信証』「信巻」を読む(その5)]

(5)自性唯心に沈みて


「序」の第二段に進みます。


しかるに末代(末法の世)の道俗、近世(こんせ)の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶(へん)す。定散(定善と散善)の自心に迷ひて金剛の真信に昏(くら)し。


第一段で言われたのは、本願の信は「如来選択の願心より発起」し、「大聖矜哀の善巧より顕彰」するということ、弥陀と釈迦二尊の力によるということでした。本願を信ずるのは紛れもなくわれらですが、われら「が」信をおこすのではなく、われら「に」信がおこるのであり、それは弥陀が「ねがい」(本願)を起こし、釈迦がそれを「こえ」(名号)として届けてくれるからであるということです。「正信偈」に「本願の名号は正定の業なり」とありますのはそのことで、本願と名号がわれらの信の因となり、われらに往生をもたらしてくれるもとであるということです(「正定の業」の「業」とはわれらの業ではなく、弥陀・釈迦二尊の業です)。


そしてここで「しかるに」ときて、第一段で述べられた本願の信のありようが歪んで伝えられていることが慨嘆されます。一つは浄土教の外において、二つはその内において、どのように本願の信が歪められているかが述べられます。まず一つ目ですが、「末代の道俗、近世の宗師」と言いますから、おそらくは華厳宗や天台宗あるいは真言宗を指していると思われますが、「自性唯心に沈みて浄土の真証を貶」していることが指摘されます。さてこの「自性唯心」とはどういうことでしょう。これは覚如が『改邪鈔』で「己身の弥陀、唯心の浄土」と述べていることで、弥陀もその浄土もわれらの「心の中」にあるという考えです。


それによりますと、われらの心は無明煩悩に濁っていますが、もともとは清らかであるということから自性清浄心とされ、それが仏性であると言われます(「一切の衆生に仏性あり」)。したがって修行をすることにより心の濁りを除き、もとの自性清浄心を取り戻すことができれば、そこに阿弥陀仏がおわすというのです。そしてまたそこに浄土が広がっていると。このように弥陀も浄土もわれらの心に本具しているというのが「自性唯心」ということです。



タグ:親鸞を読む
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