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善人か悪人か [『歎異抄』ふたたび(その35)]

(2)善人か悪人か

 さてここで「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」と「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」が対比されます。そして後者は「一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり」とされ、前者こそ弥陀の本願にかなっていると言われます。としますと、普通は悪人より善人が救われると考えられるが、実は善人より悪人の方が往生の正客であるということで、善悪の価値が顚倒されたように見えます。それが人の意表をつき、印象に残ることばとして伝えられることになったのですが、さてしかしこれは善人と悪人を対比し、悪人の方が救われると言っているのでしょうか。
 それにつづくところをよく読みますと、ここで実際に対比されているのは「〈自力〉作善のひと」と「〈他力〉をたのみたてまつるひと」であることが分かります。
 ここで善人と言われているのは「自力作善のひと」であり、何ごとも自力でなしうるとし、またなさなければならないとしている人のことです。そして悪人も世間で普通に悪人とされる人のことではなく、自力で善をなそうとしても、如何ともしがたく無力であることに気づいている人を指しています。善人、悪人といいますと、客観的な善悪の基準があり、それに照らして、この人は善人、この人は悪人と分けられるように思いますが、ここで言われている善人、悪人はそのような外から見た区分ではなく、自分自身をどう見ているかということです。
 さて、「あなたは善人ですか、それとも悪人ですか」と問われたら(そんなことはありそうにないことですが)、「まあ善人とは言えないかもしれませんが、それほど悪人ではないと思いますよ」というのが大方の答えではないでしょうか。「ぼくは正真正銘の悪人です」という答えは、冗談としてはともかく、まずありそうにありません。「ぼくは悪人です」と言うことはありますが、その場合には上げ底がしてあり、どこかで、自分を悪人と自覚するほどには善人であると思っています。正真正銘の悪人は自分を悪人などと思っていないだろうが、自分は悪人と思っているのだから、それほどひどい悪人ではなかろうと割り引いているのです。

タグ:親鸞を読む
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