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よこさまに [『正信偈』を読む(その54)]

(6)よこさまに

 本願の光は、それを反射する煩悩があってはじめて明るく輝くのです。そのことをまた別のイメージとして表現してくれるのが「横超(おうちょう、横さまに超える)」ということばです。
 「横に五悪趣を超截(ちょうぜつ)す」とあります。「よこさまに」五悪趣を超えるというのです。五悪趣と言いますのは、六道から阿修羅を除いた五つの世界(天、人、餓鬼、畜生、地獄)のことで、要するに、生死の迷いの世界(煩悩の世界)を指します。生死の海を「たてさまに」超えるのではなく「よこさまに」超える。
 「超える」と言いますと、それが「たてさま」であろうと「よこさま」であろうと、こちらからどこか別のところへ、と思ってしまいますが、そうではありません。「たてさまに超える」場合は「こちらから向こうへ」ですが、「よこさまに超える」とは「こちらがそのまま向こう」ということです。
 生死の海を超えて本願の海に至るのではなく、生死の海がそのまま本願の海なのです。では「超える」とは何かということになりますが、それは「気づく」ということに他なりません。生死の海がそのままで本願の海であることに「気づく」、これが「よこさまに超える」ということです。
しかし生死の海がそのままで本願の海とはどういうことでしょう。
 すぐ前の「信を獲て、見て敬い、大いに慶喜すれば」ということばを手がかりに考えてみましょう。本願成就文に「聞其名号、信心歓喜」とありましたが、それとも重なります。とにかく信心には喜びが伴うのです。喜びのないところに信心はないと言っていい。そして喜びの裏側には必ず悲しみが潜んでいる。


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