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退屈きわまりない [『浄土和讃』を読む(その65)]

(3)退屈きわまりない

 経典が描く浄土のありさまは、どうしてこうもリアリティがなく、退屈きわまりないのだろうと述べましたが、われらの想像力は所詮その程度のものだと言わんとしているのではないでしょうか。ぼくらは時間をイメージしようとするとき、どうしてもそれを一本の線として描いてしまうと述べてきました。その線の左側が過去で、その右側にあるのが未来、そしてその接点に現在があるというようにイメージするのです。そしてその線は、左側にも右側にも、どこまでも果てしなくのびている。
 浄土の荘厳を考えるときもこれに似ているのではないでしょうか。浄土というのはさぞかし素晴らしく荘厳されているに違いない。ではどれくらい素晴らしいのか。とりあえずぼくらに浮かぶのは、これまでに見たことがあるもっとも美しく心地よい状景でしょう。さてしかし浄土はこんなものではないだろう、もっと素晴らしいに違いないと想像するのですが、その想像は一本の線をどんどん伸ばすようにしか進んでいきません。あるときに見た絶景に別のときに見たこの世のものとも思えないような光景を加えるというように次々と加算していくしかないのです。
 その加算は、たとえば経典における宝樹の記述に見られます。金・銀・瑠璃・玻璃・珊瑚・瑪瑙・硨磲(しゃこ)の七宝の樹が安楽国に満ちているのですが、それだけではなく、たとえば金樹に銀の葉・華・果のものがあったり、銀樹に金の葉・華・果のものがあり、さらには紫金を本とし、白銀を茎とし、瑠璃を枝とし、水晶を小枝とし、珊瑚を葉とし、瑪瑙を果とし、硨磲を実とするものがある。しかも、その組み合わせの異なるものが次々と数え上げられていくのです。これはどこまでも続けられるでしょうが、もう退屈の極みと言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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