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『教行信証』精読(その147) ブログトップ

本文4 [『教行信証』精読(その147)]

(11)本文4

 次は善導の『往生礼讃』後序の文です。

 またいはく、「現にこれ生死の凡夫、罪障深重にして六道に輪廻せり。苦しみいふべからず。いま善知識に遇ひて弥陀本願の名号を聞くことを得たり。一心に称念して往生を求願せよ。願はくは仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまはざれば、弟子を摂受(しょうじゅ)したまへり」と。已上

 (現代語訳) またこうあります、わたしは生死の迷いの中にある凡夫として六道を輪廻してきました。その苦しみは言うこともできません。ところがいま善知識に遇うことができ、弥陀本願の名号を聞くことができました。一心に念仏し往生を願いたてまつります。弥陀の慈悲は、弘誓願を捨てられるはずはありませんから、この弟子を摂取してくださること疑いありません。

 最後の一文は、「願はくば」で始まりますから、「摂受したまへ」と読むのが筋ですが、親鸞は「摂受したまへり」と読みます。その意図は明らかでしょう。われらが「一心に称念して往生を求願す」るから、「弟子を摂受したま」うのではないということです。それだと念仏が往生のための条件となってしまいます。そうではなく、「仏の慈悲、本弘誓願を捨てたまはざれば、弟子を摂受したまへり」と気づいたから、「一心に称念して往生を求願す」るのです。
 こちらから一生懸命願うから、その願いに応えてもらえる、のではなく、むこうから一生懸命願われているから(そのことに気づいたから)、「一心に称念して往生を求願す」るのです。願うから、かなえられる、のではなく、願われているから、願う、のです。そして願われていることに気づいているのですから、願うだけで、それはもうすでにかなえられています。法蔵の「若不生者、不取正覚」の願いは、われらがそれに気づいたとき、それだけですでに救いのはたらきをするというのはそういうことです。

タグ:親鸞を読む
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