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救いに過去形はない [『正信偈』を読む(その66)]

(4)救いに過去形はない

 受動とは他から働きかけられることですが、こちらがそれを予期している場合と全く予期していない場合があります。こちらが予期している場合は、受動に見えて実は能動がその背後に隠れています。
 前章で無償の贈与について考えましたが、何かものを贈ってもらうときも、それを期待している場合と、全く思いがけない場合がありました。そして、贈ってもらえるかもしれないと期待している場合は、それは贈与というより交換というべきで、受動は受動でも、能動がそれに先んじてちゃんとあったのです。
 正真正銘の無償の贈与は、全く思いがけなく贈られてくる場合でした。同じように、全く予期しない受動がほんとうの受動です。そして全く予期せず他から働きかけを受けるとき、その経験は現在完了形にならざるをえません。「もうすでに」働きかけられていたことに「いま」気づくのですから。
 救いは「あゝ、救われた」と「いま」気づくことです。救いは現在完了形であり、過去形も未来形もありません。
 「あのとき救われた」と過去形で言うではないか、という反論があるでしょう。『教行信証』の末尾に「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛の酉の暦、雑行をすてて本願に帰す」とあります。親鸞は過去を振り返り、29歳のとき、叡山を下りて法然聖人のもとを訪ね、本願を聞くことができたと述懐しているのですから、これは「あのとき救われた」と言っているのではないでしょうか。
 なるほどこの文章は建仁元年の経験を思い起こしています。でも、思い起こしているのが「あゝ、救われた」と「いま」気づいたということです。「いま」気づくという以外に救いはなく、その「いま」が建仁元年であったというだけのことです。建仁元年に「叡山を下りた」ように、建仁元年に「救われた」わけではありません。 

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