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仏名を称するがゆゑに [『観無量寿経』精読(その83)]

(4)仏名を称するがゆゑに

 そこでもういちど親鸞の顕彰隠密という考えを思い起こす必要があります。それは、定善の教えにせよ散善の教えにせよ、その表面に顕れた意味(顕の義)とは別に、裏に隠された真意(彰の義)があるということでした。顕の義では、行者みずからが定散二善を積むことにより往生を得るという教えですが、彰の義では、行者がみずから定散二善を積もうとするなかで、ふと弥陀の本願他力に遇うことができ、そのとき往生は実は本願他力によるのであることに気づくということです。定散二善は本願他力に気づくための方便であるというのです。
 そして念仏往生についても、経に説かれている表面的な意味の裏にほんとうの教えが隠されているのではないでしょうか。
 経の文字の上では、一生のあいだ悪を造りつづけてきたものが、臨終に際して善知識が勧めるままに南無阿弥陀仏と称えることで五十億劫の罪が消え、めでたく往生できるとあるのですが、そこに何か隠されていることはないかということです。経の当面の文は、ただ善知識が教える通りに称名しているだけという印象を与えますが、もし下品上生のものが、称名するだけで浄土に往生できるのなら、こんな有り難いことはないと考えて称名するのでしたら、みずから定散二善を積んで往生を得ようとするのと何も変わらず、称名念仏も定散二善も己の徳を回向して往生をゲットしようとしていることになります。
 ではいったい何が隠れているのか。その答えは、先の善導の第十八願加減の文を第十八願そのものと見比べることによって得られます。加減の文は、称名については「わが名字を称すること、下十声に至るまで」とより具体的に書かれていますが、「心を至して信楽して」の部分がすっぽり省略されています。善導は称名に焦点を当てようとして信心を後景に退かせているのですが、ここに秘密を解く鍵があります。すなわち称名の陰に信心が隠れているのです。本願他力の気づき、これが信心ですが、定散二善の場合と同じように、下品の悪人も善知識が念仏を勧めることばのなかから本願他力の声が聞こえてきたということです、「なんぢ一心正念にしてただちに来れ」と。それが彼を救った。

タグ:親鸞を読む
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