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心々に回向せしむ [『教行信証』「信巻」を読む(その24)]

〈4〉心々に回向せしむ


最後の「ただ五逆と誹謗正法を除く」という一文が気になりますが、その前に『如来会』の文を見ておきましょう。


まず『大経』では「心を至し信楽して」とある箇所が『如来会』では「わが名を聞き」となっていることに気づきます。これは大事なことを教えてくれます。すなわち「本願を信楽する」とは「わが名を聞く」ことに他ならないということです。『大経』でも第十八願の成就文では「その名号を聞きて信心歓喜せん」となっていますから、信心と聞名はひとつであることは明らかです。これまで繰り返して、「いのち、みな生きらるべし」という「本の願い」は「南無阿弥陀仏」という「こえ」となってわれらに届けられると言ってきましたが、そのことをここから確認することができます。


さて問題は「わが名を聞き」のあとにつづく「おのれが所有の善根、心々に回向せしむ。わが国に生ぜんと願じて、乃至十念せん」という部分です。もとの漢文は「聞我名已所有善根心心回向願生我国乃至十念」ですから、これは「わが名を聞きをはりて、所有の善根を心心に回向してわが国に生ぜんと願じ乃至十念せん」と読むのが普通ではないかと思われます。親鸞は「已」を「己」と見誤ったのでしょう(あるいは参照したテキストがそうなっていたか)、「おのれが所有の善根」と読んだのですが、それよりも「心心回向」を「心心に回向せしむ」と読んでいることが目を引きます。これは文の流れからして「心心に回向してわが国に云々」と後につづけて読むのが自然ですが、親鸞はあえてここで文を切り、しかも「回向せしむ」と読みます。ここにはどのような思いがはたらいているのでしょう。


この「回向せしむ」は「回向せしめたまへり」ということで、主語は「われら」ではなく「法蔵」となり、法蔵菩薩がさまざまな善根をわれらのために回向してくださるという意味になります。もしこれを「所有の善根を心心に回向してわが国に生ぜんと願じ乃至十念せん」と読みますと、心心回向はもちろん願生我国も乃至十念もみな「凡夫自力のこころ」となってしまいますから、それを回避するためにこのような不自然な読みをあえて取ったということです。



タグ:親鸞を読む
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