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宿業と自由 [正信偈と現代(その160)]

(5)宿業と自由

 われらはわれらの知る由もない因と縁にもとづいて何ごとかをしているのですが(これが宿業です)、でもそのとき必ず「そうしようとしている」と思っています(これが自由です)。ですから、どうしてそうするのですかと尋ねられたら、「いや、こういうわけで」と何らかの理由を上げるのが普通です。目的と言ってもよく、「それはしかじかのためです」と答えることでしょう。しかし「何となく」という答えもあるでしょう。その辺を歩いている人に「どうして歩いているんですか」と尋ねて「いや、何となく」という答えが返ってきたらなんだかほっこりします。「歩くのが好きなもので」というのもいいなあと思います。
 「こういうわけで」とか「こういうために」という答えも、とどのつまりは「それが好きだから」や「そうしたいから」というところに行きつかないでしょうか。
 「どうして歩いているんですか?」
 「大学に行くんですよ」
 「どうして大学に?」
 「そりゃ勉強するためでしょ」
 「どうして勉強を?」
 「まあいい会社に入りたいもんで」
 「どうしていい会社に?」
 このあたりから次第に険悪になってきて、そのうちに相手は「いいかげんにしろ」と捨て台詞を残して行ってしまうでしょうが、これをどんどんつきつめれば、とどのつまりは「生きるため」となり、さらに「なぜ生きる?」とくれば、「そうしたいからだ、文句あるか」となるでしょう。このように「どうして歩いているんですか」の答えは、まわりまわって「そうしたいから」となります。
 またスピノザに登場してもらいますと、「おのおのの物は自己の及ぶかぎり自己の有に固執するように努める」、「おのおのの物が自己の有に固執しようと努める努力はその物の現実的本質にほかならない」、「この努力が精神だけに関係する時には意志とよばれ、それが同時に精神と身体とに関係する時には衝動と呼ばれる」、「我々はあるものを善と判断するがゆえにそのものへと努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するのではなくて、反対に、あるものへ努力し・意志し・衝動を感じ・欲望するがゆえにそのものを善と判断する」のです。スピノザが「衝動を感じる」と言っていることをここで宿業といい、「意志する」と言うのをここで自由というのですから、宿業と自由は何も矛盾しません。

タグ:親鸞を読む
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