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自力の世界と他力の世界 [「親鸞とともに」その97]

(11)自力の世界と他力の世界

ここから明らかになりますのは、何かが「たまたま」であるとは、そこにわれらのはからいがないことを意味するということです。ぼくと妻のつながりが「たまたま」であるとは、そこにぼくや妻のはからいはないということであり、またぼくが「たまたま」日本人であることも、そこにはぼくのはからいがまったくないということです。そして願生と得生で言いますと、その願生が「如来」の願生であるとき、われらの得生はわれらのはからいではありませんから、それは「たまたま」であるということになります。どういうわけか、ぼくは「たまたま」日本人であるように、どういうわけか、ぼくは「たまたま」得生できたということです。

かくして一方に「われら」のはからいの世界(自力の世界)があり、そこでは何らかの原因があれば「かならず」その結果が生まれます。そして他方に「如来」のはからいの世界があり、そこでは縁起のつながりが「たまたま」成り立っています(他力の世界)。さて問題はこの二つの世界はどのような関係にあるのかということです。もしこの二つの世界が場所を異にして別々にあるのであれば理解しやすいのですが、実際にはそうなっていません。われらは自力のはからいの世界に生きながら、同時に、他力のはからいの世界に生きています。一方では「かならず」そうなるべくしてなっている世界にいながら、同時に、「たまたま」そうなっている世界にいるのです。

われらは日々「わたしのいのち」を自力のはからいで生きています。われらはいつも次に何をしようかと算段しながら、こうしようと思ったことをしています。もちろん思った通りにことが運ばないことはしょっちゅうですが、そのことにぶつくさ言いながら、また次に何をすべきかを考えています。これが自力の世界ですが、さてあるとき、そうしたことすべてが他力のはからいのなかにあることに気づかされます。われらが一生懸命、ああしよう、こうしようと算段していること一切が、実は「ほとけのいのち」にそのようにはからわれ、そのように算段されていると。

われらは自力で「生きている」のですが、それがそっくりそのまま他力に「生かされている」のです。

(第9回 縁ということ 完)


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