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はじめての親鸞(その44) ブログトップ

2月9日(土) [はじめての親鸞(その44)]

 親鸞といえば「悪人正機」ということばが引き合いに出され、高校の教科書にも登場しますが、これを高校生に本気で分からせようとしますとあぶら汗が滲み出てきます。
 「悪人の方が救われるなんて、そんな馬鹿なことはないよ」
と、彼らの真っ直ぐな正義感が立ちはだかるのです。彼らは一方に善人がいて、他方に悪人がいると思っています。もちろんそこには程度の差があり、とてつもなく善い人からとてつもなく悪い人までいろいろでしょうが、そのとてつもなく悪い人の方がとてつもなく善い人よりも救われるなんて、世の中さかさまだと感じるのです。
 そこで彼らに聞いてみましょう、「きみは自分を善人だと思いますか、それとも悪人だと思いますか」と。予想通り「いやあ、善人と言うほどじゃないけど、それほど悪人ではないと思いますよ。まあ、そこそこ」といった答えが返ってきます。そのとき彼は世間で極悪人とされている人間(例えば麻原彰晃)を思い浮かべ、「あんなひどいヤツに比べれば、ぼくは善人だ」と思っているでしょう。そしてあんなひどいヤツはしっかり懲らしめなければならないと思っています。裁判員制度が導入されて判決が厳しくなったと言われますが、一般庶民の強い処罰感情が反映されていると思います。
 悪人正機はこの処罰感情ともろにぶつかるのです。悪人は懲らしめられこそすれ、救われるなどということがあってはならないと思うのです。救われるということは許されるということですが、あんなひどいヤツが何で許されるのかと。

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