SSブログ
はじめての『高僧和讃』(その233) ブログトップ

「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」 [はじめての『高僧和讃』(その233)]

(12)「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」

 「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」となるのですから、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」でもあります。蛙の卵が孵化しておたまじゃくしになるのですから、おたまじゃくしはおたまじゃくしのままで蛙であるとも言えます。もちろんおたまじゃくしと蛙とではその姿かたちに天地の差がありますから、蛙の卵が孵化しておたまじゃくしになることを知らなければ、おたまじゃくしは蛙であるなどと言えたものではできません。
 同様に、「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」の間には天地の差がありますから、「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」になることを知らなければ、「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」だなどと言えたものではありません。そしてたとえおたまじゃくしに知性があるとしても、自分が蛙の子であることをみずから知ることができないように、「ほとけのいのち」が「わたしのいのち」になるということは「わたしのいのち」がみずから知ることはできません。それは「ほとけのいのち」から気づかせてもらうしかありません。
 本願名号に遇うというのはそのことに気づかせてもらうということです。それが信心であり、そしてそのときが往生のときです。「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」とはそういう意味です。身は穢土にあっても心はすでに浄土にいる。自分のいのちは、どうみても一個の「わたしのいのち」にすぎませんが、そのままで「ほとけのいのち」でもあるということです。そのことに気づかせてもらえたということです。ここで改めて往生と成仏とをはっきり分けておきたいと思います。成仏とは「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」へと帰っていくことで、それはこの世のいのちが終わるときです。しかし往生とは「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」であることに気づかせてもらえることであり、それは本願名号に遇ったときです。

タグ:親鸞を読む
nice!(1)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
はじめての『高僧和讃』(その233) ブログトップ