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弥陀の回向成就して [親鸞の和讃に親しむ(その51)]

第6回 高僧和讃(2)

(1)弥陀の回向成就して(曇鸞讃のつづき)

弥陀の回向成就して 往相・還相ふたつなり これらの回向によりてこそ 心行ともにえしむなれ(第34首)

弥陀の回向にふたつあり、一に往相、二に還相。弥陀の回向があってこそ、信行ともにあたえらる

ここには大事なことが二つ詠われています。一つは、回向はすべて如来からということ、もう一つは、如来の回向に往相と還相があるということです。まず一つ目。回向ということばはそのなかに多くの意味を含んでいますが、もとは「善きものを他にふり向ける」ということで、たとえば「死者に回向する」というのは、さまざまな善きものを死者にさし向ける(手向ける)ということです。この例のように、回向ということばはわれらがすることとしてつかわれてきましたが、親鸞はその方向を180度転回して、回向はすべて如来からやってくると言うのです。つまり善きものが如来からわれらにさし向けられるのだと。善きものの最大のものは救いですが、救いはわれらが自身でそれを自分に与えるのではなく、如来から与えられるということです。われらが救いをつかみとるのではなく、救いがわれらをつかみとるのです。

二つ目。如来の回向(たまもの)に往相と還相があるということです。往相回向は「わたし自身が救われる」ことで、還相回向は「他の衆生を救う」ことです。われらが回向するのでしたら(自力回向でしたら)、まず「わたし自身を救い」(自利です)、しかる後に「他の衆生を救う」(利他です)というように、二つは分かれざるをえませんが、往相も還相もどちらも如来の回向ですから(他力回向ですから)、その二つは二つにして一つであり、「わたし自身が救われる」ことがそのままで「他の衆生を救う」ことです。もっと正確に言いますと、「わたし自身が救われる」と気づくとき、それが同時に「他の衆生を救う」ことであると気づいています。自他の救いはひとつであると気づくのです。ただ、その気づきが「わたし」に起ったからといって、同時に他の衆生にも起るわけではありません。気づきは人それぞれに起るしかなく、気づいた人にとっては自他の救いはひとつですが、気づいていない人には自他の救いなどどこにもありません。


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