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ことばにならない [『正信偈』を読む(その14)]

(5)ことばにならない

 大津波で「あゝ、どうして自分が生き残ってしまったのか」と嘆く人(これ以上に切ない嘆きがあるでしょうか)が、「生きてきてよかった」と実感したいとどれほど願っても、そう願えば願うほどそこから遠のいていくばかりです。
 ではこの願いは不可能な願いでしょうか。とんでもありません。「こちらから」願うことはできませんが、「向こうから」願われていることに気づくのです。ふと「生きてきてよかったね」という声が聞こえる。そしてそう聞こえた途端に、もうその願いは叶えられているのです。
 これが他力の真実です。
 さてしかしこの真実をどう伝えればいいでしょう。この経験はことばを越えているのではないでしょうか。親鸞は『唯信鈔文意』の中で「こころもおよばれず、ことばもたへたり」という言い回しをしていますが、この「ことばにならない」ということについて考えてみたいと思います。
 「ことばにならない」とは、ある意味では、敗北宣言です。「ことばになる」ことだけが相手にしてもらえるのですから。ぼくらが何かを理解するということは、それを「ことばにする」ことができるということです。だから「ことばにならない」のは、理解していないということに他なりません。生徒が「分かっているのですが、それをことばにできません」と言ったら、「いや、ことばにできないということは、ほんとうには分かっていないということだ」と言わなければなりません。
 釈迦が悟りを開いたとき、それをなかなか語りだそうとしなかったというエピソードがあります。梵天の勧請(かんじょう)があってようやく口を開いたと。これは普通、釈迦の悟りの内容があまりに微妙なので、それを人に語っても理解してもらないのを危惧したためと解釈されていますが、そうではないでしょう。ことばにならなかったのに違いありません。


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