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平等ということ [『浄土和讃』を読む(その55)]

(19)平等ということ

 長い回り道をしましたが、次の和讃に進みましょう。菩薩和讃の第7首目です。

 「安楽声聞・菩薩衆 人・天智恵ほがらかに 身相荘厳みなおなじ 他方に順じて名をつらぬ」(第22首)。
 「声聞・菩薩・人・天と、浄土の聖衆智慧たかく、姿かたちもみなおなじ。娑婆での名前ちがうだけ」。

 もとの曇鸞の偈は「安楽の声聞・菩薩衆 人天智恵ことごとく洞達せり 身相の荘厳殊異なし ただ他方に順ずるがゆゑに名を列(つら)ぬ 顔容(げんよう)端正(たんじょう)にして比ぶべきなし 精微妙躯にして人天にあらず 虚無(こむ)の身・無極(むごく)の体なり このゆゑに平等力を頂礼したてまつる」で、親鸞はその前半部分をこの和讃にしているのです(後半は次首)。安楽浄土に往生したものは、声聞・菩薩・人・天などいろいろに呼ばれるが、それは娑婆世界の呼び名を仮に使っているだけで、その智恵も身相もみな同じだというのです。
 ここで考えたいのは娑婆世界の差別の相と安楽浄土の平等の相との対比です。
 グローバリゼーションの中で貧富の差は甚だしいものがありますが、いまはそれをおくとしても、人間にはさまざまな不平等がつきまといます。顔のよしあし、頭のよしあしなど、如何ともしがたい差がぼくらを苦しめます。古代インドではカーストという差別があり、それが経典にも反映されています。四十八願のなかの第三願に「国中の人・天ことごとく真金色ならずんば、正覚をとらじ」とありますが、これなどは生まれつきの肌の色で差別されていたことが背景にあります。安楽浄土ではそうした差別がすべてなくなり、みな平等に智恵も身相も仏と同じになるというのです。
 さて、安楽浄土というのは弥陀の「帰っておいで」という呼び声に導かれて帰っていくところでした。ぼくらの故郷ともいうべきところで、そこからこの世に生まれてきて、またそこへと帰っていくのです。そしてそこでは、もう金持ちも貧乏人もなく、顔のいい悪いもなく、頭のいい悪いもありません。

タグ:親鸞を読む
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