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「わたし」という牢獄 [『ふりむけば他力』(その76)]

(15)「わたし」という牢獄

 さてしかし釈迦が「実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨である。ゆえに自分をととのえよ」と言うときの自分とは何でしょう。常住不変の「わたし」はないと言うときの「わたし」とどう違うのでしょう。
 まず確認しておきたいのは、常住不変の「わたし」は仮構されたものにすぎないことに気づいた(これが無我のほんとうの意味です)としても、これまで同様、その「わたし」を仮構しながら生きていくしかないということです。われらはこの仮構された「わたし」なしでは生きていくことができません。突然ですが、宇宙飛行士を考えてみたいと思います。宇宙飛行士が宇宙船の外で活動しようと思えば宇宙服は不可欠です。着たことがありませんから、どれほど不自由なのか分かりませんが、見るからに大変だろうなと思います。しかしそれなしでは一瞬たりとも生きていることができません。それと同じように、われらがこの世を生きていくのに、仮構された「わたし」という宇宙服が欠かせないのです。「わたし」という宇宙服に気づいたとしても、それを脱ぐわけにはいきません。
 さて「わたし」という宇宙服を着ていることに気づいていなかったときの「わたし」と、それに気づいたときの「わたし」とで何が違うでしょう。
 「わたし」という宇宙服を着ていることでは何の違いもありません、ただそれに気づいているかいないかの違いだけです。しかしその違いが決定的に重大です。「わたし」という宇宙服を牢獄にたとえることもできるでしょう。普通の牢獄の場合は、自分がそのなかにいることはいやでも分かりますが、「わたし」という牢獄はそのなかにいながらそのことにはついぞ気づきません、自分の思うままに生きていると思っています。この気づきは自分のなかからは金輪際おこりません。牢獄の外から「おまえは牢獄のなかにいるのだ」という声が聞こえてはじめて気づかされるのです。そのとき自分は牢獄のなかにいることに気づくと同時に、その牢獄には外があることも気づきます。後者が法(本願)の気づきに他なりません。「わたし」という牢獄の気づきと法の気づきはひとつです。
 「わたし」の牢獄のなかにいながらそれに気づいていない「わたし」と、そのことに気づかされた「わたし」を分けなければなりません。そして「わたし」の牢獄に気づかされた「わたし」は、牢獄の外に本願の世界があることにも気づいていますから、その本願に倚りかかることで、もう他の何ものにも倚りかかることなく、ほんとうの意味で独立した自由な生き方ができるようになります。

                (第6章 完)

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