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ただ仏語を深信して [『教行信証』「信巻」を読む(その58)]

(7)ただ仏語を深信して


 深心釈の第三段です。


 また一切の行者、ただよくこの『経』(観経)によりて行を深信するは、かならず衆生を誤らざるなり。なにをもつてのゆゑに、仏はこれ満足大悲の人なるがゆゑに、実語(真実のことば)なるがゆゑに。仏を除きて以還(いげん)は、智行いまだ満たず。それ学地(有学地のこと、まだ学ばねばならない地位。無学地に対する)にありて、正習(しょうじゅう)の二障(煩悩とそのじっすなわち残った気配)ありていまだ除こらざるによつて、果願いまだ円かならず。これらの凡聖は、たとひ諸仏の教意を測量(しきりょう)すれども、いまだ決了することあたはず。平章(ひょうしょう、ものを正し明らかにする)することありといへども、かならずすべからく仏証を請うて定(じょう)とすべきなり。もし仏意にかなへば、すなはち印可(認可)して〈如是如是〉とのたまふ。もし仏意にかなはざれば、すなはち〈なんだちが所説、この義不如是〉とのたまふ。印せざるは、すなはち無記(ここでは無意味ということ)・無利・無益の語に同じ。仏の印可したまふは、すなはち仏の正教に随順す。もし仏の所有(しょう)の言説(ごんせつ)は、すなはちこれ正教・正義(しょうぎ)・正解・正業・正智なり。もしは多もしは少、すべて菩薩・人・天等を問はず、その是非を定めんや。もし仏の所説は、すなはちこれ了教(了義教、真実を説きあらわした教え)なり。菩薩等の説は、ことごとく不了教と名づくるなり、知るべし。このゆゑに今の時、仰いで一切有縁の往生人等を勧む。ただ仏語を深信して専注奉行すべし。菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑礙(ぎげ)をなし、惑ひを抱いて、みづから迷ひて往生の大益を廃失すべからされと。乃至


 先に、仏教に随順し、仏意に随順せよと言われたのにつづいて、「ただ仏語を深信して専注奉行すべし」と述べられ、「菩薩等の不相応の教を信用して、もつて疑礙をなし、惑ひを抱」くなかれと言われています。



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