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救いは「もうすでに」 [「『証巻』を読む」その82]

(9)救いは「もうすでに」

そもそも「これから」与えられる救いというものはあるのでしょうか。「これから」与えられる救いは救いと呼んでいいものでしょうか。救いは「もうすでに」与えられているからこそ救いなのではないかということです。とうぜん反論があるでしょう、いまはまだ救われていないが、「これから」救いがやってくることはいくらでもあるではないか、と。たとえば無実の罪で投獄されている人が、冤罪であったことが判明して、明日無罪放免されることが決まったとしよう。その場合、いまはまだ獄のなかにあって救われていないが、明日獄から出ることができたときに、晴れて救われることになるのではないかという反論です。

いえ、そうではありません。いまはまだ獄の中にあるとしても、出獄できると決まった今日から救いは「もうすでに」はじまっています。そして「もうすでに」はじまっている救いは実際に出獄できる明日まで、いや、出獄できてからもずっとつづきます。救いは出獄できる明日にはじめて与えられるのではなく、出獄できると決まった今日から「もうすでに」与えられているのです。「もうすでに」救われているから「これから」も救われるのであり、もし「もうすでに」救われていないとしますと、「これから」も救われることはありません。

そのように、本願を信受して「ほとけのいのち」に摂取不捨されたとき「もうすでに」救いははじまっています。依然として「わたしのいのち」を生きていますから、依然として自他相剋の苦しみの中にありますが、もう「ほとけのいのち」に摂取不捨されたのですから、そのときから「もうすでに」救いははじまっているのです。そしてその救いは実際に「ほとけのいのち」になるまで、いや、そののちもおそらくずっとつづくでしょう。しかし大事なことは、信心を得たそのときに「もうすでに」救いははじまっているということであり、だからこそ「これから」も救われるということです。「もうすでに」救いがはじまっていなければ、「これから」も救われることはありません。


タグ:親鸞を読む
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