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二種類の真理 [はじめての『高僧和讃』(その115)]

(2)二種類の真理

 ぼくらにとって真理とはみずからつかみ取り、そしてみずからその正しさを証明しなければならないものです。たとえ他の人から教えてもらうにしても、その人の言うことをみずからの頭で理解し、みずからのことばでその正しさを主張することができてはじめて真理といえます。ところがそうした真理とは別種の真理があるということ、善導が「十方諸仏の証」を請うというのはそのことを示しています。その真理は向こうからやってくるものですから、その正しさは向こうから証明されるしかありません。
 真理には、こちらからつかみ取り、こちらから証明しなければならないものと、向こうからやってきて、向こうから証明してもらうしかないものの二種類があるということです。ぼくらは生きていくためにさまざまなものを必要とし、それらをみずから手に入れなければなりませんが、前者の真理はそのときに力を発揮します。そして、生きる上で必要なものをこちらからゲットしなければならないように、そのときに力を発揮する真理もこちらからゲットしなければならないのです。
 前者の真理は、その意味で、生きていく上で不可欠ですが、しかし残念ながらそれによって救われることはできません。その真理は「どう生きる?」に答えるものであっても、「なぜ生きる?」には答えてくれないのです。この問いに応じるには向こうからやってくる後者の真理が必要です。これは、ぼくらがゲットするのではなく、むしろぼくらがそれにゲットされるのです。ゲットされることで救われるのです。そしてそれによって救われたこと自体がその真理の正しさの証明です。
 善導が「十方諸仏の証」を請うたのは後者の真理です。彼は『観無量寿経』から真理がやってきて、その真理にゲットされたと感じた。それで彼にとっては十分に真理であることの証明ですが、あえて夢のなかに「十方諸仏の証」を請うたのは、「物のためにして(他の人たちのためであり)、己身のため」ではないと言います。和讃に「末代濁世のためにとて」とはそういう意味です。

タグ:親鸞を読む
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