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大きにすべからく慚愧すべし [『教行信証』「信巻」を読む(その82)]

(10)大きにすべからく慚愧すべし


   一つ目の文は『般舟讃』の冒頭の一文です。『般舟讃』とは「般舟三昧」(特別な期間を設けて念仏三昧の行をすることで諸仏を目の当たりにすることができるといわれ、諸仏現前三昧ともいう)の行法を説いた書で、感銘深い文が散りばめられ、法然はこれを読みたい、読みたいと言っていたそうです。のっけから「大きにすべからく慚愧すべし」とあるのには戸惑いますが、これはおそらく「かたじけない」という意味でしょう。「かたじけない」には「お恥ずかしい」という意味と「ありがたい」という意味が込められています。こんなところにも善導が師・道綽から引き継いだ「悪を見つめる眼」を感じさせますが、釈迦がこんなわれらのために種々の方便をほどこして信心をひらかせてくださったことが何ともありがたいというのです。


二つ目の文は『往生礼讃』からの引用ですが、はじめに断り書きがされているのは、これを引用するにあたり、智昇の編纂した『集諸経礼懺儀』に載せられた文を引くという趣旨です。どうしてわざわざそんなことをするのかと思いますが、『集諸経礼懺儀』所載のテキストの方がよいと親鸞が判断したのでしょう。引かれていますのは、すでに『観経疏』「散善義」から引用されていました「深心釈」と同じ趣旨の文と(この部分は「行巻」にも引用されています)、『大経』「流通分」の一文を善導流に読んだものですが、注目したいのは一つ目の深心について「いま弥陀の本弘誓願は、名号を称すること、下至十声〈聞〉等に及ぶまで、さだめて往生を得しむと信知して、一念に至るに及ぶまで疑心あることなし」と言われているところです。


このなかの「下至十声〈聞〉等に及ぶまで」の部分が、他のテキストでは「下至十声〈一声〉等に及ぶまで」となっているのでが、親鸞はこの点に着目してあえて『集諸経礼懺儀』から引用したのに違いありません。善導はさまざまなところで、『大経』には「乃至十念」とか「乃至一念」とあるのを、よりはっきりと「下至十声〈一声〉等に及ぶまで」と言うことが多く、そこからしますとここでもそうする方が自然かもしれませんが、『集諸経礼懺儀』では「下至十声〈聞〉等に及ぶまで」となっていることに親鸞が着目したということです。





タグ:親鸞を読む
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