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息災延命のためにとて [『浄土和讃』を読む(その169)]

(2)息災延命のためにとて

 ともあれ「現世利益和讃」の第1首を読んでみましょう。

 「阿弥陀如来来化(らいけ)して 息災延命のためにとて 『金光明』の寿量品(じゅりょうぼん) ときおきたまへるみのりなり」(第96首)。
 「阿弥陀如来があらわれて、現生利益の経として、金光明の寿量品、説いてはのちに伝えたり」。

 『金光明経』も他の経典と同じく釈迦が説いた(ことになっている)はずですが、ここでは阿弥陀如来が説いたとされます。親鸞は釈迦仏は阿弥陀仏の応身であると見ているのです(諸仏は所詮一仏で、一仏はそのまま諸仏です)。「寿量品」と言いますのは、如来の寿命が無限であることを説くところで、「品」とは今の言い方に直せば「章」です。それによりますと、ある菩薩が「如来の寿命は無量であるはずなのに、どうして釈迦如来は80歳で亡くなられたのか」という疑問をもったそうです。そのとき突然、菩薩のいた部屋の壁が消失して、東西南北の四方から仏たちが現れ、釈迦如来は亡くなられたように見えるかもしれないが、その寿命は無量であると説いたというのです。
 親鸞はここから、本願を信じ念仏をもうすもののご利益として「息災延命」があると読み取ります。
 ぼくらはさまざまな願いをもっていますが、なかでも無病息災・長寿延命がそのいちばんでしょう。どれほどお金があっても、どれほどいい家庭に恵まれていても、病に臥せり、早死にしてしまっては元も子もありません。家の近くに臨済宗妙心寺派の大きなお寺があり、驚くほどの参拝客が押し寄せます。正月などは付近の国道が大渋滞を起こすほどの繁盛ぶりです。このお寺もご多聞に漏れず、現世利益をうたい文句にして参拝客を集めているのですが、その第一はやはり無病息災・長寿延命ではないでしょうか。
 ぼくはこのようなお寺やそこに参る人たちを蔑みの目で見ていましたが、しかしぼく自身、無病息災を願っており、長寿延命を祈っています。ときには「いつ死んでもいい」などと言うかもしれませんが、その半分以上はウソです。それは隠しようもない事実です。この事実を素直に認めるところからスタートしなければ、ぼくの考えていること、言っていることはみな綺麗ごとになってしまいます。

タグ:親鸞を読む
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