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『観無量寿経』精読(その98) ブログトップ

聞名と称名 [『観無量寿経』精読(その98)]

(8)聞名と称名

 次いで帰命の「命」について「業なり、招引なり、使なり、教なり、道なり、信なり、計なり、召なり」と辞書からその意味を汲み取ってきます。「業」は本願の業力ということ、「招引」はその願業力がわれらを招き引くということ、「使」そして「教」は「そうせしめる」という使役の意味であり、「道」は弥陀が「来れ」と道(い)うこと、「信」は弥陀からの便りということ、「計」は弥陀のはからいということ、そして「召」は「来れ」と召すということで、いずれも弥陀の側からわれらに対してさまざまな働きかけがなされていることを示しています。われらが弥陀を「よりたのみ」「よりかかる」には違いありませんが、それができるのも、弥陀からわれらに「よりたのめ」「よりかかれ」と呼びかけられ、招かれているからであることを明らかにしているのです。
 かくして「帰命は本願招喚の勅命なり」と結論づけられます。
 「南無阿弥陀仏」とは「阿弥陀仏に帰命する」ということですから、これはわれらが阿弥陀仏に向かって表明することばとしか受けとることはできず、実際、『観経』においてこのことばはそのようなものとして下品のわれらに勧められています。「南無阿弥陀仏」はわれらの称名のことばです。しかし『大経』においてはそれとは異なり、名号はわれらが聞くもの、聞名のことばです。われらが阿弥陀仏に向かって称えることばではなく、阿弥陀仏がわれらに呼びかけることばです。「われによりたのめ」「われによりかかれ」と招き喚(よ)ぶ声です。その声が聞こえるから、われらは阿弥陀仏に「よりたのむ」ことができ、「よりかかる」ことができるのです。
 「南無阿弥陀仏」はわれらが阿弥陀仏に「あなたに帰命いたします」と称えることばに違いありませんが、それに先立って阿弥陀仏がわれらに「われに帰命せよ」と呼びかけることばであり、それが聞こえるからこそ「あなたに帰命いたします」と応えることができるのです。聞名があるから称名があるのです。
                (第8回 完)

 以上で「『観無量寿経』精読」が完了です。これまで長いあいだ親鸞のテキストや浄土の経典を読み解くという形で書きつづけてきましたが、ここで一旦打ち切り、これまでの集大成として新たに「ふりむけば他力」というタイトルのもと、親鸞の他力思想について書いてまいりたいと思います。乞うご期待。

タグ:親鸞を読む
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