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王舎城の悲劇 [『浄土和讃』を読む(その118)]

           第7回 三部経和讃(その2)

(1)王舎城の悲劇

 「願われているから願うことができる」のは他力の真実ですが、それはその真実に気づいてはじめて言えることです。その気づきがまだやってきていない人には「こころから願わなければ叶えられない」が真実です。これは自力の真実で、そのこと自体は疑いようのないことです。「こころから願う」ことがなければ、何ごともなしえません。そして「こころから願う」ということは、おのずから「もろもろの功徳を修」することにならざるを得ません。ただ「そうあって欲しいなあ」と思うだけで何もしないのでは、幸せはいつまでもやってきません。
 ではどうすればいいのかと言いますと、「諸悪莫作、諸善奉行(しょあくまくさ、しょぜんぶぎょう 諸の悪をなすなかれ、諸の善を奉行せよ)」ということに尽きますが、それを次の和讃はこううたいます。

 「臨終現前の願により 釈迦は諸善をことごとく 『観経』一部にあらはして 定散諸機(じょうさんしょき)をすすめけり」(第62首)。
 「第十九の願により、釈迦は観経あらわして、定散二善を説きたまい、自力の人にすすめたり」。

 臨終現前の願とは第19願のことです。親鸞は第19願を方便の願としましたが、それに対応するものとして『観経』を方便の経と位置づけます。第19願に「もろもろの功徳を修し」とあったのを受けて、そのもろもろの功徳が『観経』一部に説かれているとするのです。『観経』については、「大経和讃」のあとに「観経和讃」9首がうたわれますが、ここではそれに先立ち、第19願との関連で取り上げられます。
 ここで『観経』のすじをざっと見ておきますと、マガダ国の王舎城で、阿闍世が父王を殺そうとし、助けようとした母・韋提希をも幽閉するという事件が起こります。韋提希は釈迦にこう訴えます、「世尊よ、われむかし何の罪ありてか、この悪子をうめる。…ただ願わくば世尊よ、わがために広く憂悩なき処を説きたまえ」と。「わたしはどうしてこれほどの不幸に遭うのでしょう。どうすれば幸せになれるかをお教えください」との願いを受けて、釈迦は韋提希のために「憂悩なき処」に至るためにはどうすればいいかを語り始めるのです。かくして定善(こころを統一して浄土や弥陀、聖衆を思い浮かべる)と散善(こころの統一ができないまま、悪を止め善を修める)が説かれていきます。

タグ:親鸞を読む
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