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「わたし」 [『歎異抄』ふたたび(その48)]

(5)「わたし」

 ピンとこなくさせている大元が「わたし」です。「人を教えて信ぜしむ」のはあくまでも「わたし」ですから、それがなぜ如来の回向なのか、となるのです。
 「わたし」こそあらゆることの起点であるという感覚、これをデカルトは「われ思う、ゆえにわれあり」と言い、カントは「超越論的統覚」ということばで表現しましたが、仏教ではこれを「われへの囚われ(我執)」と捉えます。近代ヨーロッパ哲学では「わたし」は自由の原理であるのに対して、仏教では「わたし」は束縛の原理であるという点で対照的ですが、いずれもわれらは「わたし」をこの世を生きる起点であると見ているとする点では共通しています。
 「わたし」はこの世のあらゆるもののなかで特別中の特別の位置にあると見る。「わたし」あってのものだね、これがわれらの生きる大前提になっているのです。
 さてしかし「わたし」が「人を教えて信ぜしむ」のは、「わたし」が「みづから信じる」からに他なりません。では「わたし」が本願を「みづから信じる」とはどういうことか。これまで繰り返し述べてきましたように、本願を信じるということは、「わたし」が本願に「信」というハンコを押すことではありません。逆に本願が「わたし」に「信」というハンコを押すのです。本願から「わたし」に「信」というハンコが押されたことにより、「わたし」は否応なく本願を信じるのです。
 「わたし」が起点となって本願の信を生むのではありません、本願が「わたし」に本願の信を生むのです。
 ではどのようにして本願は「わたし」に本願の信を生むのでしょう。「わたし」が「よきひと」の仰せをかぶることによってです。「よきひと」が「人を教えて信ぜしむ」ことにより、「わたし」に本願の信が生まれてきたのです。では「よきひと」にどのようにして本願の信が生まれたのでしょう。言うまでもありません、「よきひと」の「よきひと」が「人を教えて信ぜしむ」ことによってです。かくして本願の信は次々とリレーされてきたことが了解できます。

タグ:親鸞を読む
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