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偈文21 [正信偈と現代(その180)]

         第21回 源信-大悲ものうきことなく

(1)偈文21

 極重悪人唯称仏(ごくじゅうあくにんゆいしょうぶつ) 極重の悪人はただ仏を称すべし。
 我亦在彼摂取中(がやくざいひせっしゅちゅう)    われまたかの摂取のなかにあれども、
 煩悩障眼雖不見(ぼんのうしょうげんすいふけん)   煩悩まなこをさえてみたてまつらずといえども、
 大悲無倦常照我(だいひむけんじょうしょうが)     大悲ものうきことなく、つねにわれを照らしたもう。

 (現代語訳) 源信和尚はこう言います、「極重の悪人であるわれらは、ただ弥陀の名号を称えさせていただくしかありません。わたしもまた弥陀の光明に摂取されているにもかかわらず、煩悩が目を覆ってその光明を見ることができませんが、それでも弥陀の大悲は絶えることなくいつもわたしを照らし続けてくださるのです」と。

 大部な『往生要集』のなかで「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩まなこをさえてみることあたわずといえども、大悲ものうきことなく、つねにわが身を照らしたもう」(「正信偈」では七文字にそろえるため少し変えられています)の一文はもっとも印象に残ります。親鸞もこの文をいろいろなところで引用していますが、これがこころに残る大きな要因は「われ」を主語に語られているからです。
 『教行信証』でも、ごくわずかですが、親鸞がみずから名のりを上げている文があります。たとえば序文の「ここに愚禿釈の親鸞、よろこばしきかな西蕃月氏の聖典、東夏日域の師釈、あひがたくしていまあふことをえたり、ききがたくしてすでにきくことをえたり」。そして信巻の「かなしきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の大山に迷惑して、定聚のかずにいることをよろこばず、真証の証にちかづくことをたのしまず。はづべしいたむべし」など。このような文はおのずと印象に残り,いつまでも忘れません。

タグ:親鸞を読む
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