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信心の慶び [「『証巻』を読む」その103]

(10)信心の慶び

楽を喜びに置き換えますと、外楽は感覚的な喜びであり、内楽は精神的な喜びですから、これは何の説明もなく分かりますが、さて法楽楽とはどのような喜びでしょう。曇鸞はこれを説明して「智慧所生の楽」であり、また「仏を縁じて生ずる」とも言っていますが、そこからしまして外楽・内楽は「わたしのいのち」が得てくる喜びであるのに対して、法楽楽は「ほとけのいのち」から与えられる慶びであると言えるのではないでしょうか。これまで見てきましたように、「わたしのいのち」は分別知を生きていますが、「ほとけのいのち」は無分別智そのものです。そして外楽も内楽も「わたしのいのち」がさまざまに分別して手に入れてくる喜びですが、それに対して、法楽楽は「ほとけのいのち」の無分別智が「わたしのいのち」に与える慶びです。

「わたしのいのち」を分別して生きる中で、さまざまな感覚的な喜び・精神的な喜びを得ていますが、それらとは別に「ほとけのいのち」の無分別智が与える慶びがあり、それが法楽楽すなわち妙楽勝真心です。ここから妙楽勝真心とは信心そのものであることが了解できます。ひたすら「わたしのいのち」を生きているとき、ふと「ほとけのいのち」に遇うことができ、ああ、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」に生かされて生きているのだと気づく。これが信心の慶びであり、妙楽勝真心の慶びです。このように見てきますと、還相の菩薩の心として上げられてきた障菩提門の三心も順菩提門の三心も結局のところ信心の慶びに他ならないことが明らかになります。

還相の菩薩は、遠離我心・遠離無安衆生心・遠離自供養心をもつなどと言われますと、とんでもなく大変なことのように感じられますが、これは要するに信心の慶びが与えられることであり、「オレが、オレが」という思いや「他人のことなどどうでもいい」という思いから「おのずから」遠離していくということを述べていると了解していいのではないでしょうか。

(第10回 完)


タグ:親鸞を読む
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