SSブログ
『歎異抄』ふたたび(その94) ブログトップ

薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はず [『歎異抄』ふたたび(その94)]

(5)薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はず


これは善悪についての不可知論であると言えます。「ほとけのはからい」は不可称不可説不可思議であるということです。


さてしかし、「ほとけのはからい」は不可知であるとしても、だから何をしてもいいということにはなりません。われらが「これは善し」「これは悪し」と言いあっているのはあくまで「わたしのはからい」にすぎず、それがほんとうに善いことであるのか、悪いことであるのかについては親鸞とともに「総じてもつて存知せざるなり」と言わなければなりませんが、だからと言ってどんな悪もしていい(造悪無碍)ということにはなりません。この問題はこれまで何度か遭遇してきましたが、ここであらためて考えておきたいと思います。


「わたしのはからい」は所詮「みなもつてそらごとたはごと、まことあることなき」ものであるとしても、その「わたしのはからい」がそっくりそのまま「ほとけのはからい」のなかにあることに気づきますと、これまでのわが身をふり返り、おのずから慚愧の念が生まれてくるに違いありません。これまでは「ほとけのはからい」のなかにあるなどとつゆ思わず、「わたしのはからい」を独善的におしすすめるのみでしたが、いまやすべてが「ほとけのはからい」によって支えられていることに気づかされたのですから、新しく生まれ変わった自分としてそれに相応しい人生を歩もうとするはずです。


親鸞は弟子への手紙でそれを巧みな譬えをもちいて次のように述べています。「もとは無明の酒に酔(え)ひて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみ好みめしあうて候ひつるに、仏のちかひをききはじめしより、無明の酔ひもやうやうすこしづつさめ、三毒もすこしづつ好まずして、阿弥陀仏の薬をつねに好みめす身となりておはしましあうて候ぞかし。しかるに、なほ酔ひもさめやらぬに、かさねて酔ひをすすめ、毒も消えやらぬに、なほ毒をすすめられ候ふらんこそ、あさましく候へ。…薬あり毒を好めと候ふらんことは、あるべくも候はずとぞおぼえ候ふ」(『末燈鈔』第20通)と。


「仏の御名をもきき念仏を申」すようになった人は、「この身のあしきことをばいとひすてんとおぼしめすしるしも候ふべし」(同)というのです。



タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『歎異抄』ふたたび(その94) ブログトップ