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宗教の怖さ、あるいは統一教会について(つづき) [親鸞の和讃に親しむ(番外編 その2)]

◎宗教の怖さ、あるいは統一教会について(つづき)

犯人の母親に戻りますと、次々と不幸に見舞われたとき、彼女には「どうして自分がこんな不幸に」という劣等感と裏腹に「自分はこんな不幸に見舞われるはずはない」という優越感があったに違いありません。そんな思いでいるところに「どうしてあなたにこんな不幸が舞い込むのでしょう、そこには何かがあるはずです」という魔の声が忍び寄ってくる。本人自身が「これは何かの間違いだ」と思っているのですから、その魔の声に即座に乗ってしまいます、「そうだ、これには何か背景があるに違いない、そうでなければこんなことが起るはずがない」と。こうなるともうマインドコントロールのお手の内であり、コロリとやられてしまいます。

このようにマインドコントロールに引っかかる根っ子に「こんなはずじゃない」、「これは何かの間違いだ」という思いがあります。しかし考えてみますと、人がさまざまな不幸に見舞われるのは、そこにそうなるような因縁があるということです。大急ぎで言わなければなりませんが、これは「因果応報」ということではありません。自分が過去にそのようなる因をつくったから、いまその報いが来ているということではありません(これはカルト集団がよく使う手です)。いま因縁といいますのは、すべてのことがらが縦横無尽につながりあっており、われらには到底見通すことのできないそのつながりのなかでものごとは起こるということです(仏教ではそれを縁起と言います)。その意味で言いますと何ごとも「こんなはずであり」、「これは間違いでも何でもない」ということです。もう一つ言えば、どんなことだって起こり得るということです。

「こんなはずじゃない」の大元にあるのは、「これは〈わたしのいのち〉だ」という思いです。この思いは誰にもありますが、しかしそれと同時に「これは〈ほとけのいのち〉だ」という気づきがあるかどうか。この気づきは「あらゆるいのちは〈ほとけのいのち〉としてひとつにつながりあっている」という気づきですが(親鸞は「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり」と言います)、この気づきがありさえすれば「こんなはずじゃない」という思いは起こらず、「たまたま〈わたしのいのち〉が不幸に見舞われただけ」と思えるようになります。


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