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縁ということ [『歎異抄』ふたたび(その59)]

(6)縁ということ

 縁ということばが縁起に由来することは言うまでもありません。釈迦が「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」と言った、あの縁起です。
 もう数え切れないほど繰り返し述べてきたことですが、この縁起とわれらが日常つかっている因果(原因・結果)とは微妙に、しかし根本的に異なります。その違いをひと言でいいますと、縁起においては「これ」と「かれ」は同時にひとつにつながっていますが、普通の因果においては「これ」と「かれ」は時間的に切り離されています。縁起では「これ」あるときには同時に「かれ」があり、「かれ」あるときには同時に「これ」がありますが、因果では、まず「これ」があり、しかる後に「かれ」が起り、しかもその関係は不可逆です。このようにまったく違うにもかかわらず、しばしば縁起と因果はごちゃまぜにされ、そこからさまざまな誤解が生じます。
 たとえば十二支縁起。無明からはじまり、行(行為)、識(認識)とつながり、最後は老死に至るのですが、これを時間的な因果関係と見て、その因果の仕組みについて、ああでもない、こうでもないと論じられてきました。しかしこれは、無明のあるところ、行、識、そして老死があり、それはそれぞれの項目についても同様に言えることで、要するに十二支はみな同時にひとつにつながりあっているということを述べているのです。縁起とは同時につながって起きているということです。
 親子の関係を考えてみましょう。普通はこれを原因・結果の関係とみて、親という原因があって、しかる後に子という結果が生まれると説明されます。しかしこれを縁起とみますと、親と子は同時にひとつにつながれています。つまり親があるところ同時に子があり、子があるところ同時に親があるという関係です。親がなければ子がないのは当然ですが、子がなければ親もありません。子のいない場合もあるではないかと言われるかもしれませんが、子がいないと親というわけにはいきません。子が生まれてはじめて親といえるのですから。

タグ:親鸞を読む
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