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「親鸞とともに」その98 ブログトップ

はじめに(10) [「親鸞とともに」その98]

第10回 自由ということ

(1)はじめに

前回の最後のところで、われらは紛れもなく自力(「わたし」のはからい)で「生きている」が、それがそっくりそのまま他力(「如来」のはからい)に「生かされている」と言いました。つまり「生かされて生きる」ということですが、そのことと「自由に生きる」こととの関係を考えてみたいと思います。「生かされて生きる」のは、自由ではないのではないかという問題です。ある大学教師が学生たちに「生かされている」ということばからどんな印象を受けるかを尋ねたところ、多くの学生が「末期がんの患者が集中治療室でさまざまな機械に囲まれて生かされている」というイメージを上げたそうです。安らかに死ぬのではなく、無理やり「生かされている」というイメージですが、「生かされる」という受身の形から、「わたしの意思」に逆らって、というニュアンスが醸し出されてくるのだと思われます。

この「わたしの意思」が問題の鍵を握っています。「わたしの意思のままに」が自由ということで、「わたしの意思に反して」がその反対の束縛です。で、「生かされている」という言い回しからは、「わたしの意思に反して」というニュアンスが強く感じられ、そこから束縛されているというイメージが生まれてくると思われます。さて問題は「わたしの意思」とは何かです。前章で原因概念のもとは「わたし」が何かを「する」ことにあるのではないかと述べましたが、その「わたし」とは「わたしの意思」のことで、「わたしの意思」が「こうしよう」と思うことが原因となって、その結果が生まれてくることが元となって、広く自然現象を原因・結果という概念によって見るようになったのではないかということでした。

われらが何かをするとき、そこに「そうしよう」という「わたしの意思」があるのは間違いありません。たとえそれをすることが嫌で仕方がないとしても、「嫌だけれど、そうしよう」と思うからこそ、そうするのであり、そこには「そうしよう」という「わたしの意思」があります。ときに「そうしよう」と思っていないのに、何かをしていることもありますが、それは無意識の行動であって、意識がある限り、そこにはかならず「わたしの意思」があると言っていいでしょう。だからこそ、意識的な行為には、それがどのような思いで(好んでか、嫌々か)なされたにしても、その責任が問われるのです。


タグ:親鸞を読む
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