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諸邪業繋さはらねば [はじめての『高僧和讃』(その133)]

(3)諸邪業繋さはらねば

 次の和讃です。

 「仏法力の不思議には 諸邪業繋(しょじゃごうけ)さはらねば 弥陀の本弘誓願を 増上縁となづけたり」(第71首)。
 「本願力の不思議さよ、どんな悪にもさえられず、されば本願たたえては、増上縁と名づけらる」。

 ことばの解説から。「諸邪業繋さはらねば」とは、われらの悪業は往生の障りとならないということです。われらのなすどんな悪業によっても往生は遮られることはないと言っても同じです。どうしてそんなことが言えるかといいますと、弥陀の本願が往生の「増上縁」だからです。増上縁とはほかの何ものにも増して強い縁という意味で、弥陀の本願という縁がありさえすれば、ほかのどんな業縁もそれを邪魔立てできないということです。すぐ頭にうかぶのは『歎異抄』第1章の「悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐる悪なきゆへに」という一文です。
 『歎異抄』では「さまたぐる」と言われ、和讃では「さはらねば」と言われますように、業繋と本願とは互いに対立するものと意識されています。業繋は往生の妨げる力であり、本願は往生の因となる力。たしかに業繋と本願はそのものとしては綱引きをする関係にあるでしょうが、気をつけなければいけないのは、それぞれの気づきにおいては、互いに引っ張り合う関係どころか、同じ気づきを表から見るか裏から見るかの違いにすぎません。業繋の気づきがあるところには、その裏に必ず本願の気づきがあり、本願の気づきがあるところでは、その裏に必ず業繋の気づきがあるということです。
 そこからしますと、業繋にもかかわらず往生できる、というよりも、業繋のゆえに往生できるといわなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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