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矛盾について(その276) ブログトップ

5月5日(木) [矛盾について(その276)]

 釈迦が周りから懇請された末、ようやくことばにしたのが「縁起」でした。「これあるによりて、かれあり。これ生ずるによりて、かれ生ず」ということばです。これだけを見ますと「なーんだ」と思います。当たり前すぎて拍子抜けしてしまいます。
 縁起などと聞きますと、何か深遠なことを言っているような気がするかもしれませんが、日常のことばで言えば「つながり」でしょう。「みんなつながりあっている」ということです。「そんなの言われなくても分かっているよ」とまぜかえしたくなるようなことです。しかし、彼は感じたことを、何とかしてことばへ変換しようとしていることを忘れてはなりません。元来「ことばにならない」ことを、どうにかしてことばにしようとしているのです。
 縁起とは「つながり」ですが、これまで「仏」を「つながり」に変換できないかと考えてきたこととリンクします。
 「縁起を知る」ことと「縁起を生きる」ことの違いについて以前考えたことがあります。縁起とは「すべてのものはつながりあっていて、何ひとつとしてそれだけで存在するものはない」ということだと「知る」のはそれなりに立派なことでしょうが、でもそれは縁起を「生きる」こととは全く違うということです。
 縁起を「知る」とき、知る人は縁起(つながり)そのものから零れ落ちています。何かを「知る」ということは、その何かを向こう側において、それを眺めているのです。「すべてのものはつながりあっている」のを外から見ているのです、「あ~、みんなつながっているんだ」と。みんなつながっているのに、悲しいかな、自分だけはその外にポツンと取り残されています。
 これでは縁起の一番肝心なことが抜け落ちてしまうのではないでしょうか。縁起はそれを生きなければ縁起ではありません。

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