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ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり [『教行信証』「信巻」を読む(その152)]

(11)ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり

三心は一心であることが述べられたあと、一心としての信心をその機と法の両面から讃嘆されます。

おほよそ大信心海を案ずれば、貴賤緇素(しそ、僧と俗)を簡(えら)ばず、男女老少をいはず、造罪の多少を問はず、修行の久近(くごん)を論ぜず、行にあらず善にあらず、頓にあらず漸にあらず、定にあらず散にあらず、正観にあらず邪観にあらず、有念にあらず無念にあらず、尋常にあらず臨終にあらず、多念にあらず一念にあらず、ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。たとへば阿伽陀薬(あかだやく、霊薬)のよく一切の毒を滅するがごとし。如来誓願の薬は、よく智愚の毒を滅するなり。

「四不十四非」とよばれる段で、四不すなわち「貴賤緇素を簡ばず」、「男女老少をいはず」、「造罪の多少を問はず」、「修行の久近を論ぜず」の四つが「信の人」について述べ、「非行非善」、「非頓非漸」、「非定非散」、「非正観非邪観」、「非有念非無念」、「非尋常非臨終」、「非多念非一念」の七項・十四非が「信そのもの」について述べています。いずれも真実の信心は相対的な対立を超えたものであり、不可思議不可称不可説であることを際立たせています。要するに信心は普通の物差しでははかれないということです。

人について言いますと、普通の物差しは「貴いか賎しいか」、「出家か在家か」、「男か女か」、「年寄か若者か」、「善人か悪人か」、「努力の人か怠けものか」といったさまざまな規準で人をはかりますが、信心はそんな規準を超えていて、あらゆる物差しが何の役にも立たなくなるということです。本願の信心はそのような相対的な区別を超えて、あらゆる人に分け隔てなく開かれているということで、『歎異抄』第1章はそのことを「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とすとしるべし」と言っています。信そのものについてもまた、どんな物差しも用なしになるということ、あらゆる規準を超えているということですが、さてしかし「あらゆる規準を超える」というのはどういうことでしょう。


タグ:親鸞を読む
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