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宿業と差別 [『歎異抄』ふたたび(その106)]

(7)宿業と差別


 何ごとも宿業によるという思想は、「善因には善果が、悪因には悪果が」といういわゆる因果応報と同じと見られるのがしばしばです。そしてそこから、人々から卑しめられる生業についているのは、過去に(前世で)悪業をはたらいてきた報いであるという差別観念が生まれてくることになります。親鸞がそのような差別意識とは無縁の人であったことは彼が語ったことばや肖像画から明らかですが、とすると宿業の思想との関係はどうなるのかという疑問が出てきます。宿業の思想とは「善因には善果が、悪因には悪果が」ということなのでしょうか。


前に言いましたように(4)、宿業は縁起とぴったり重なります。何ごとも宿業によるということは、何ごとも他のものに「縁って起こる」ということです。それだけとしてあるものはなく、みな他のものとのつながり(縁)のなかにあるということです。これはいわゆる因果応報とは似て非なるものです。因果応報とは、ある因がある果を生み出すということで、その関係は一方向であり不可逆的です。しかし縁起とは、「これあるに縁りてかれあり」であると同時に、「かれあるに縁りてこれあり」でもあり、その関係は双方向で可逆的です。別の言い方をすれば、因果応報は時間的な関係であるのに対して縁起は時空を超えたつながりであり、しかもそれは縦横無尽のつながりです。


ある人が狩猟を生業としているのは宿業によるというのは、縦横無尽のつながり(それをわれらが見通すことはできません)のなかにおいてそうしているということであり、過去のある特定の因がその果を生み出しているということではありません。したがってそこには差別的な意味あいはまったく含まれておらず、ある人は縦横無尽のつながりのなかで、たまたま狩猟を生業とするようになっているのであり、もしその人が貴族の家に生まれたとしても何の不都合もありません。宿業(縁起)の思想は差別を是認するものではないことをあらためて確認しておきたいと思います。



タグ:親鸞を読む
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