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要素説 [「信巻を読む(2)」その97]

(15)要素説

吉徳という大臣の言っていることは全体としてよく分からないと言わざるをえませんが、「もし有我ならば実にまた害なし。もし無我ならばまた害するところなけん」というところはよく理解できます。もし「われ」が常住であるならば(これが有我です)殺害はありえず、またもし「われ」に実体がないとすれば(これが無我です)これまた殺害はありえないというのはその通りでしょう。ただ、そこから吉徳はそもそも殺害自体が存在しないと結論するのですが、そうはなりません。「われ」は実体としてあるわけではありませんが、われらの世の中は「われ」を仮説(けせつ)することで成り立っていますから、その意味で「われ」は存在するのであり、したがって殺害もあります。

さて、パクダ・カッチャーヤナという人は七要素説で知られています。アジタの上げる地・水・火・風の四大に、苦と楽と霊魂を加え(その点で純粋な唯物論ではありませんが)、人間はこれらの七要素の集合体であるとし、それぞれの要素は互いに独立していると考えます。そしてそこから驚くべきことを言い出すのです、利剣が頭を断つとしても、それは利剣が七要素の隙間を通過するということにすぎない、と。かくして殺害という悪は成り立たないことになります。仏教でも無我の説明として人間を五蘊すなわち色(物質)・受(感受)・想(表象)・行(意思)・識(認識)という五つの要素が和合したものにすぎないと言いますが、上に述べましたように、実体としての「われ」は存在しないとしても、五蘊が仮に和合したものとしての「われ」は認めますから、それを殺害することは大きな罪となります。

六人目のニガンタ・ナータプッタは名を上げられるだけですが、この人、本名をヴァルダマーナといい、ジャイナ教というインドに今日までつづく宗教の祖です。仏教とよく似たところがありますが、徹底した禁欲主義を取り、とりわけ不殺生の禁戒を厳守することで知られています。

(第8回 完)


タグ:親鸞を読む
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