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わたしのいのち [「信巻を読む(2)」その67]

(9)わたしのいのち

われらはみな「わたしのいのち」を生きています。これは「わたしのいのち」であり、その主人は「わたし」であると思っています。このいのちが「自分のもの」であるのは当たり前だと思って生きているのですが、釈迦はそれに対して驚くべきことを言います、「『わたしには子がある。わたしには財がある』と思って愚かな者は悩む(わが子が言うことを聞かないと悩み、自分の財産がいつの間にか誰かにかすめ取られたと悩む)。しかしすでに自己が自分のものではない(このいのちは自分のものではない)。ましてどうして子が自分のものであろうか。どうして財が自分のものであろうか」(『ダンマパダ』第5章「愚かな人」)と。

まず確認しておきたいのですが、「これはわが子である」あるいは「これはわが財である」と思っていない人はいるでしょうか。そしてまた「これはわがいのちである」と思っていない人はいるでしょうか。おのれに正直である限り、どんな人もみな「これはわが子であり、わが財である」と思い、また「これはわがいのちである」と思っていることを否定できないでしょう。ところが釈迦は、それは「わが子」や「わが財」への囚われであり、そしてその本に「わがいのち」への囚われがあると言うのです。「わが子」や「わが財」などありもせず、そもそも「わがいのち」もありもしないのに、それに囚われて苦しんでいると言うのです。

「すでに自己が自分のものではない」のに「わがいのち」に囚われて生きていると気づくことが無生のさとりです。この気づきは「大いなる力に生かされている」という気づきとしてやってきます。それを浄土の教えは、生きとし生けるものたちに「いのち、みな生きらるべし」という「本のねがい」がかけられていると説きます。その本願が光明と名号としてわれらに届いたとき、これまでずっと「わがいのち」を「わが裁量」で生きていると思っていたが、「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」すなわち本願に生かされていることに気づくのです。これが無生のさとりです。


タグ:親鸞を読む
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