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第4回、本文2 [「『証巻』を読む」その39]

(8)第4回、本文2

どちらの読みでも全体の意味が大きく変わるわけではありませんが、しかし「除く」を最後までかけて読みますと、還相の菩薩は例外であるという印象がより強まると言えます。親鸞のように、最後の一文を「除く」から外して読みますと、「普賢の徳を修習せん」が「もししからずは、正覚を取らじ」にすぐつづくことになり、これがむしろ常道であるという印象が生まれてきます。もう一歩すすめて言えば、親鸞の読み方をすることで、「除」の一字は、あってもなくてもさして変わらないようになります。すなわち「究竟してかならず一生補処に至らん」ことと「その本願の自在の所化、衆生のためのゆゑに云々」とはとくに対立することではなく、むしろ一生補処に至ることがそのままで還相の菩薩として「普賢の徳を修習せん」ことであるように見えてきます。かくして往相がそのまま還相ということになります。

最初の一文にかなり時間をかけましたが、先に進みましょう。親鸞は『浄土論』から次の文を引きます。

『浄土論』にいはく、「出第五門とは、大慈悲をもつて一切苦悩の衆生を観察(かんざつ)して、応化(おうげ)の身を示す。生死の園、煩悩の林のなかに回入(えにゅう)して、神通に遊戯(ゆげ)して教化地(きょうけじ)に至る。本願力の回向をもつてのゆゑに。これを出第五門と名づく」と。以上

天親は『浄土論』において、善男子・善女人が「安楽国土に生じて、かの阿弥陀仏を見たてまつる」には、五つの行(五念門とよばれます)、すなわち礼拝・讃嘆・作願・観察・回向の各門を修めるべきであるとし、それが成就すれば、五念門のそれぞれに応じて五つの功徳(五功徳門とよばれます)を得られると言います。それが近門(ごんもん)・大会衆門(だいえしゅもん)・宅門・屋門・園林遊戯地門(おんりんゆげじもん)で、「初めの四種の門は入の功徳を成就し、第五門は出の功徳を成就す」と述べています。本文において「出第五門」と言われていますのは、園林遊戯地門のことです。前にふれましたように、天親が「入」と言っていることを曇鸞は「往相」とし、「出」を「還相」と言い替えています。そこで親鸞は還相のありようを明らかに示すものとしてこの文を引用しているのです。


タグ:親鸞を読む
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