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観音・勢至もろともに [親鸞の和讃に親しむ(その8)]

8.観音・勢至もろともに

観音・勢至もろともに 慈光世界を照曜し 有縁を度してしばらくも 休息(くそく)あることなかりけり(第19首)

観音勢至あいそろい、慈悲のひかりで世をてらし、縁ある衆生救っては、しばらくの間もやすみなし

観音・勢至の慈光は世界を照曜すると詠われますが、弥陀と観音・勢至の関係はどのようなものでしょう。第3首に「法身の光輪きはもなく 世の盲冥をてらすなり」とありましたが、弥陀の光明はわれらを直接に照らすのではなく、観音・勢至を媒介として「世の盲冥」を照らすと受けとるべきでしょう。つまり観音・勢至とは弥陀の光明をわれらにつなぐ役割をする菩薩たち(善知識、あるいは「よきひと」)を代表しているということです。これは弥陀の名号についても同じで、南無阿弥陀仏は弥陀から直にわれらに与えられるのではなく、人づてにリレーされてくるものです。『歎異抄』2章の「弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、云々」はそれを言っているのに違いありません。

不思議な「ひかり(光明)」や「こえ(名号)」はどこか宇宙のかなたからやってきますが、それがわれらに届くのは目の前にいる「よきひと」を通してです。「よきひと」はまず有縁の人に「ひかり」と「こえ」を届け、それを受けとった人がまた「よきひと」となってその有縁の人に「ひかり」と「こえ」を届けるというようにして弥陀の本願はその悠久の歴史をつくっていくのです。弥陀の本願は悠久の歴史として存在するということから大事なことが出てきます。われらはその歴史のなかで「よきひと」を通して弥陀の本願を受けとりますが、それは決してそれだけで完結しないということです。「よきひと」から弥陀の本願を受けとったわれらは、みずから「よきひと」としてまた誰かに弥陀の本願を受け渡すことになるのです。

本願を受けとることと(これが往相です)、本願を受け渡すことは(これが還相です)、切り離しがたく結びついているのです。だからこそ弥陀の本願は悠久の歴史として連綿とつづいていくことになります。


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