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名号という行 [『教行信証』「信巻」を読む(その64)]

(2)名号という行


「名号という行」という言い方をしてきましたが、これには疑問が出るかもしれません、名号を称えること、すなわち称名あるいは念仏が行ではないのか、と。確かに「行巻」の冒頭に「大行とはすなはち無礙光如来の名を称するなり」とありますから、称名が行であると言うのが筋でしょう。しかし親鸞が「行巻」で明らかにしようとしたのは、この称名はまず「諸仏の称名」であるということです。つまり名号は、われらがそれを称えるより前に、諸仏が称え、その「こえ」がわれらに聞こえることによりわれらの往生が成り立つということ、ここに名号の意味があります。そしてわれらもまた名号を称えるには違いありませんが、それは聞こえてきた名号そのものの力によるのであり、名号が聞こえてきたから、それにこだまするように名号を称えるだけです。


名号はわれらがそれを称えることに第一義的な意味があるのではなく、名号そのものが本願の行であり、われらはそれにより往生できるのです。


このことは親鸞の「よきひと」法然が、ここに出てくる「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥、時節の久近を問はず、念々に捨てざるをば、これを正定の業と名づく。かの仏願に順ずるがゆゑに」という一文を読んで目からうろこが落ち、山を下りて専修念仏の道を歩むことになったことと深く結びついています。法然は念仏こそわれらを救う教えに違いないと信じていたのでしょうが、しかしそのことに薄皮一枚の疑いがあったと思われます。それは、どうして念仏するだけで往生できると言えるのだろう、その根拠はどこにあるのだろうという疑問です。その疑問に答えたのがこの一文の最後、「かの仏願に順ずるがゆゑに」です。


これを単に「本願にそのように言われているから」と受け取るのではまったく不十分です。本願に「念仏すれば往生できる」と言われているのだから、念仏するだけで往生できるのだというのでは、どうして本願にそのように言われているのかというさらなる問いを呼び起こすだけです。そうではなく、「かの仏願に順ずるがゆゑに」とは名号は本願の行としてすでにわれらのもとにやってきているということです。われらが南無阿弥陀仏と称えることで往生できるのではなく、南無阿弥陀仏はもうすでに「こえ」としてわれらに届けられているということです。問題はその「こえ」が聞こえるかどうか、「聞其名号信心歓喜(その名号を聞きて、信心歓喜せん)」がおこるかどうかです。それがおこれば「即得往生住不退転(すなはち往生を得、不退転に住す)」となります。



タグ:親鸞を読む
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